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瞑想における哲学の使い方 [前編]

数年前から自分の練習の比重が、アーサナから瞑想に移ってきました。
それに伴い、哲学の勉強をする時間も増えてきました。
 
哲学と瞑想がどのように関係してくるのか?
哲学的知識を瞑想でどのように使うのかについて、個人的な考えを書いていきたいと思います。
 
哲学とは何か?を定義するのは難しいですが、ヨガにおいては「世界をどのように理解するのか」ということが主な議題となるかと思います。
 
「世界を理解する」とは、例えば一元論哲学であれば『世界は元(もと)は一つである』というところから、世界(ブラフマン)も自分(アートマン)も元は一つのものから発生していおり、「世界と自分は元々は同じものである」ということに「気づく」こと、「理解すること」が目的となります。
 
ヨガの哲学は主にサーンキヤ哲学という二元論がベースとなっています。
二元論は、元は二つである、とする考え方で、精神原理(プルシャ)と物質原理(プラクリティ)があり、プルシャが自分の本質であり、プラクリティは自分以外のものすべて、この場合は自分の体や心、精神などもプラクリティに含まれるとされます。
プルシャは「見るもの」であり、プラクリティは「見られるもの」とされます。
プラクリティはプルシャに「見られる」ことで物質的に世界を創造するとされています。
そのため二元論の目的は、自分の本質が物質的な世界(心、マインドなども含む)にあるのではなく、それを観察するプルシャにあるということに「気づく」こと、「理解すること」であると考えられています。
 
なぜこんな考えになるのか!?
については、インドでの哲学の発生や、その考え方の変化の流れを歴史的に理解する必要が出てくるこのですが、それは別に機会を作れたらと思っています。
 
話が「世界」とか「精神原理」とか抽象的な内容になってきましたが、哲学はどうしてもそちらの方向に話が進みがちになってしまいますね💦
 
長くなりましたので[後編]では、これまでの話を踏まえて、具体的な内容に入っていきたいと思います。
 
写真はインドで買ったシンギングボールです。
無骨な外見のわりに繊細な音♫
お披露目する機会がないのが残念です。

みたいな(=゚ω゚)ノ