何回読んだかわからない仏教の本。
読むたびに付箋が増えていき、もはや意味がなくなってしまった。
『ヨーガ・スートラ』のサマーディの段階と「観」の瞑想、4章のカイヴァリヤ(独在)と「五蘊非我」。
今回はこれらの関係を整理するために読んでるわけですが、仏教の本は作者によって、ブッダの言葉の解釈すらも、だいぶ違いがあるんですよね。
結構有名な先生同士でも、本の中で名指しで仏典の訳や解釈の否定とかしあっているので(仲悪いの)、ワタクシには、なにが正しいやら。
そうすると、正解って自分で無理に探すものではなく、自然と「気づく」ものなのかな?と思えてくる。
その「気づき」が起こるまで、学び考え(スヴァディアーヤ:読誦)、瞑想し続ける(ディヤーナ)。
ただそれに期待や固執をしない(ヴァイラーギャ:離欲)。
能動的な働きには、我欲というか、意思のチカラが働くような感じがする。
瞑想の中でそういった欲を捨て、受動的な状態で「気づき」を待つのが、ヨガの瞑想なのかな、と。
『ヨーガ・スートラ』でも、アビヤーサ(繰り返し実践すること)の必要性は説かれるけど、実践の内容は、あまりガツガツした印象を私は受けないのですが、いかがでしょう?。
ヨーガとは、何かを付け足すのではなく、余計なものが自然と自分から離れていくのもなのかな、そんな印象です。
それが今の自分には自然に思える。
なのでそれを続けてみます。
みたいな(=゚ω゚)ノ
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